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● ヘミングウェイ

「老人と海」(福田恒存訳/中央公論社「世界の文学44」ヘミングウェイ)

ヘミングウェイが全力を傾けて描写したカジキマグロとの格闘、次から次へと襲って くる鮫との戦いの場面は翻訳のせいもあるかもしれないが、あるいは、写実の矛先を 心理描写に向けるとなると無意識のうちに気負いが現れるのか。描写そのものは完璧 だったが、どこか、今ひとつ、乗せられなかった。 それでも書き出しから数十ページ続く少年とのやり取りの場面と終末十ページほどの叙述は凄い。
舌を巻いて感嘆した。
貧窮の中でしぶとく、冷徹に、それなりに生きている人達の生活というか、真実とい うものをユーモアを交えて簡潔に、そして、あますところなく表現している。

実のところ、僕は一度もヘミングウェイを読んだことはない。 自分の書く方向とはまったく違うので長いこと敬して遠ざけていた。 それが、去年いって震撼されたコロラドを舞台に何か書こうとノートを取っていて、 ふと、思いついた。雑多な民族が持ち込んで育んだ底抜けの明るさ。すさまじい暴 力。生に対する凶暴極まりない讃歌、死。それらの拠って来る理由の手がかりを彼な ら啓示してくれるのではあるまいか。
そう、思ったのだ。
彼は、おそらく、アメリカ大陸そのものが持つ永劫の美しさのなかから生まれてきた 作家だと思う。
そして、彼の救いのない美意識はどこかわれわれの、たとえば川端康成などと通ずる ところがある。

自分が書くものはとんでもない薄っぺらなものだが、それでも彼と出あったせいで、 会話も描写も自分でどうしてこんなものが書るのだろうと不思議に思うほど触発され た。強烈な作家というものは、きっと、だれに対しても良質のアルコールのようなき きめがあるものらしい。

(文/田中洌)

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